昭和56年3月15日 信徒大会 ★、★
皆さん、おめでとうございます。ご神願ご成就のための、おー、御信心を日々、皆さん共々にさせて頂いておるわけでございますが、んー、ただご神願と申しましても、んー、間違いのないご神願、また間違いのないご神願に向かっての一歩一歩でなからなければならないと思います。んー、テーマを、おー、に頂いております、うー、合楽理念の、おー、未来像を目指してと、ね、合楽理念こそ、人間が、あー、絶対に幸せになれれる手立て、しかも過去宗教が説いてまいりました、ためには茨の道もと、おー、またはあられもない行というものが、つきもののように言われてまいりました、あー、過去の宗教。金光教におきましても、過去100年の金光教はやはりそれを、おー、なしてきたように思います。
はっきりと「この方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞ」と。教えておられるにもかかわらず、やはり苦しいければ、また神様に願うからにはすがるからには、何とかどうとか、身を自分の身を、おー、痛めてでも、苦しめてでもといったような観念がございますから、水行をしたり断食の行をいたしましたり、まあ私共も頂き、それをしてまいりました、ね。
けれどもだんだん分からせて頂いて、教祖様のお言葉を玩味すれば玩味するほど、「この方の行は火や水の行ではない」と「表行より心行をせよ」と仰せられるところに本気で取り組ませて頂くことになりましたら、ね、これこそが、いわゆる金光教、純粋の、おー、修行観であり、またそこに、あー、私が申します、うー、宗教以前の宗教とか、ね、前代未聞の開闢以来の名教だというふうに、いー、聞いて頂いておるわけでございます。
皆さん、その、お手元に配られておる、それをご覧になって分かりますように、合楽で、んー、合楽理念の発表があり、今言う、表行より心行と言われる、うー、ところに、んー、いたりましたところから、もう急激に合楽のひれいというものが輝き、輝き出したというか、あー、上昇しております事実をご覧になればいいわけで、合楽ではそういうもう表行も行もせん、という、言われたのですけれども、しないことがご神意に沿うておったということを思うのです。
人間が自ら自分の体を言うならば、あー、苦しめるということを、ね、また苦しむということを神様がお喜びになるはずがない、ね。そこから、言うならもう家業そのものが、あー、行であり心行である。もう家業の行というて、まあ金光教の信心は、例えばお商売をしておる者が、お商売をしておることが行ということじゃない。お道の信心によって、言うならば合楽理念をもとにして商売をさして頂く時に、初めてそれが行ということ。
合楽理念をもとにして商売をすることになることは、ね、もうこれは四六時中、自分の心の中に、いー、心行がなし続けられておらなければできることではないのですから、家業の行と心行とはひとつです。表現は二つのようですけれども、ね、いわゆる心行の伴うた家業であって、初めて家業の行ということになるのです。
誰でも、おー、豊かな生活を願わない者はありません、ね。為には、やはり私共が、ね、金やら物やらがあるから豊かな生活ができる。それはなるほど、物やら金は豊かでしょうけれども、肝心要の心が豊かでなかったら、その豊かなものも、言うならば財も死んでしまうようなことではないでしょうか。さあ、これだけの財産を誰に譲ろうか(笑)、と言うて、そのことが心配になるようなことであったら、むしろ財が仇になるということでございます、ね。
いよいよ、おー、えー、心を豊かに、ね、為に、なら合楽理念をもっていたしますところから、ね、小さい心が次第に大きくなっていく手立てを合楽理念は説きます、ね。心が豊かになる、ね、物、金、全てが、ね、その心ひとつに約束されるのです。そこに真の信心の、おー、まあ価値というもの、申しますかね、豊かな心、心があの方は豊かな人だと言うとっても、もしその人が貧乏しておったら、私はその人の豊かさというのは本当のものじゃないと。心が豊かになったら全ての者に豊かになれれる、言わばおかげを、いやおかげが伴うてこそ、初めて豊かな心。合楽で言う、だから豊かな心というのは普通で言う豊かな心ではない。信心による、言うならば心行、信心による教えに基づくところの豊かさでなからなければならない、ね。
★今朝から、んー、たくさん、久しぶりに都忘れという聞くの一種です。皆さんもご承知のように小さい花ですけれども、非常に珍しい花です、もう濃い紫の花をつけた、まあ菊の花でございます。今こちらへ出てまいります時に、今朝、頂いたその、おー、んー、菊の花こうを一束頂いたんですけれども、その時の情景を頂くんです、ね。合楽では言うならば菊の花を合楽のシンボルのように言うてまいります。菊というのは喜び久しいともじって書きますと、意味が分かります、ね。
心にその喜びを、その喜びも言うなら信心による喜び、合楽理念に基づくところの喜びそれを私は今日は都忘れの、言わば紫の菊というところに、そんなものを感じました。みなさん、言うなら紫というのは、ここでは安心と言われます。私は合楽で言う安心というのは、もう仏教で言う安心立命といったような難しいものではないと思うんです。合楽で言われるのは日々、どういう中にあっても心が安らぐ。
どういう苦しいことになってまいりましても、ね、苦しいことには間違いはないけれども、ね、心の底には、ね、安心がある。神様におすがりしてのことですから、お取次を頂いてのことであるから、いや親先生の祈りの圏内にあることであるからということになります。
今朝から、うーん、ある夫婦の方がお礼参拝をしてまいりました。祝日前に、息子さんが書置きを置いて家出をしたんです。もうお父さん、お母さん、あー、こうして自分が家を出るけれども心配をしないでくれというようなことでありますけれども、とても心配しないという、心配せんですむということはない。はあ、もう息子がそげんもう言うとるからもう心配せんという親はおりません、やっぱり心配になる。
ほら神様に早速お願いに出てまいりました。なかなか、ようとしてその行方が分かりません。毎日、いろいろ手を尽くしておりますけれども、ね、もう信心は長いのですけれども、本気で信心をしようと、まあ一年に一遍、宅祭をするくらいなことで、えー、信心を頂こうという、うー、姿勢ができていなかった、ね。ですから、もう、それこそ、うー、まあ言うならば家の中が真っ暗、ね。
ところが今朝からも皆さんに聞いて頂いたんですけれども、昨日、おー、山口の方に、まあそれこそ風の便りででしょうか、まあ一手をた、あー、立ててみようということになり、昨日はその奥さんが一人でお参りをしてまいりました。うーん、そして、申しますのに、親先生、本当におかげを頂きました。もう主人の心がね、もう本当にもう本当に、もうとにかく憂鬱で、えー、もうそれこそ心が真っ暗だった感じの、おー、中からこれは主人が、あー、そんなふうに申しますから、私までも、まあ、あー、おかげを頂いてということは、昨日、やはりあっちこっち尋ねて、おるんですから外へ外出しておりますから外で外食をいたしました。食堂に寄って、んー、まあ食事をさして頂いた。そして、そのカツ丼を注文した。
ところがどういうふうに聞き違えたか間違えたか、親子丼を持って来た。はあ、どうもすいません、ならお取り替えましょうと、こう言うたけれども、いやいやそれで結構ですと言うて、その、親子丼を感動いっぱいで頂いた。親先生が言われる、言うならば天地のリズムである。神様、ここにものを言うて下さっておるかのように、言うならば親子が言うならばままになるというふうに直感した。もう途端に自分の心が軽くなった。
家内にそのことを話した、おかげ頂くぞと、ね、こういう働きを、まあ受けたというお届けが昨日ございました話を今朝からもさして頂きましたが、今朝から夫婦でまたお礼に出てまいりましてから、もうそれこそ昨日も山口に行って、まあ何の手がかりもなかったらしいんですけれども、もう毎日参ってまいり、まあ、よった、もう第一、表情が態度がころっと変わる。もう親先生、長年信心をさして頂いておりましたけれども、本気で信心を頂こうと思うたこともなかったことに気付かして頂いて、ね、今度、息子のこういうようなひとつの事件を通してです、ね、それこそ親子丼じゃないけれども、親子が共々助かる信心を頂かせて頂く、家内と2人でそのことを話しております。
今度、このことを境にひとつ、本当の信心を頂き、もうそれこそ明るい何でもないようの、いわゆる息子が今ここに現われたら息子に手をついてお礼を言いたいような態度です。信心とは素晴らしいですね、合楽ではね、そういう働きを必ず受けることができるんです、ね。どういうような難儀と思うような中にあっても神様の働きがその前後にです、ね、いろいろと起こってくるんです、ね。
合楽でもう少しお話を頂いておる人ならばすぐ気付く、ね。カツ丼が親子丼に化しておる。しかもその親子丼から親子の者も助かり、そして初めて、言うならばおかげ信心から言うならこの息子のこういう事件を通して、本当な信心を頂きたい。ということに気付かせて頂いたら、心が軽くなった。私は思うのに、ね、神様が許されなければ心に安らぎが生まれないと思う。
自分で安心しよう、安心しよう、はあほんなこだ、心配せんでええ、と親先生にお取次ぎ頂いてのことだから、いくら言うても思うても、なかなか心が安らがない、神様が許される、ね、そこに生まれてくる安らぎ。私は合楽で言う安心というのはそういう意味に頂かなければならんと。安心立命などというのはこれはとてもとても、それこそあられもない行、それこそ人間が人間らしゅう生きながらの、では頂けそうにもない、ね。また、人間ではとてもそういうことは出来ないような修行でもさしてもらわなければ、その、安心立命なんていうのは頂けんのじゃないかとこう思う。
いつの場合でも神様が共である、どんな場合であってもお願いをさしてもらうと心が安らぐ。そういう、私は信心をまあ金光教で言う、安心であり、また特に合楽で言う安心だというふうに思うんです。どういう難儀な中にあってもいいです。心が安らげば、心に安心が生まれれば、いやその難儀にお礼を言いたいような心が生まれてくるならば、ね、それでよいのです、そういう心を育てていくのです、信心とは、ね。その育てていく手立て、ね、精進、眼鏡をとって、黒眼鏡。
今朝からも、んー、お話申しましたように、いー、神様は、あー、不信心者ほど神はかわいいと仰せられる。ね。どのくらい不信心者がおるだろうか、そんならばどれほど神様に安心してもらえれる、喜んでもらえるような、言うならば信者氏子がおるだろうか、ね。信心者という人はなかなか沢山おりますけれども、果たして親神様に安心してもらえる、喜んでもらえれる信者がどれほどおるだろうかと、ね。
合楽の信者、合楽の信奉者は、皆、言うならば、んー、神様に安心してもらえれる、喜んでもらえれる信者氏子にお取立て頂いておるだろうか、ね。今、私が申します、どんな時であっても、どんな場合であってもお取次を頂いたら、心が安らぐ。またはそういう神様の自然がもの言うて下さるような物音が、言うなら神の声として聞こえれる、神の姿として見えてくる、ね。
そこにご神願成就の、ね、言うならば神の願いというものを感受してもらえれる。その神の願いに添わせて頂こうという心にならせて頂いた時点から、私は神様が喜んで下さる、うん、もうあそこまで決心ができたからと、まあ言うならば安心して下さると思うんです、ね。
合楽にご縁を頂いておるから神様に、言うならば、あー、不信心者ほど神はかわいい、いいや、私は合楽におかを頂いておるから、神様を悲しませていないということではないのです、ね。合楽にご縁を頂いておりましても、今日は皆さんが一人一人が、ね、神様に喜んで頂く、神様に安心して頂けれる信心をあらゆる角度から説かれておる合楽理念をマスターして、様々な問題を通して、その問題の中から真の信心を分からしてもらい、ね、そこからその問題を、言うならばご神願成就のための神様の働きとして、言うなら神愛として頂けれる心、ね、そこから初めて神様に安心してもらえれる、その信心がこれにできた時に、ね。
だからそこまでをね、ひとつ本気で、えー、皆さん本気で今日はそこんとこだけを皆さん、ひとつあの、おー、今日の言うならば、んー、ご直会と申しますか、ね、お土産として頂いて帰ってもらいたい、ね。ただ、合楽にご縁を頂いておるというだけでは、いわゆる、ね、ですからどういうことになりますか、本当に神様が、ね、不信心者ほど神がかわいいと仰せられるその不信心者に、ね、それこそ、一人一人、もう一歩ずつでも、それこそ千里の道も一歩からですから、まずは自分がそういうおかげを頂いて、いよいよ心が豊かに大きゅうなって、豊かな大きなおかげにも預からせて頂いて、ね、そしてそれを、それこそもうほとんどの氏子、人間が私は神様の目からご覧になれば難儀な氏子に見えられるのではないかと思います。
ですからもう大変なことなんです、ね。合楽理念に基づく海外布教、ね、和賀心時代を世界の国々に隅々にまで、毎朝、総代さん方がお届けを願われます。それを最近では朝のご参拝のご信者、教師を、全部が、ね、総代さん達の、そのお届けを自らのお届けとして、えー、まあお願いをしておるわけでございます、ね。これはなるほど、合楽理念、もう何々は合楽理念をもってするほかない、いかにも、このう、うーん、簡単な、簡単です、やっぱり、ね、簡単です、明瞭です、ね、おかげが確かです。これはもう嘘じゃない。このキャッチフレーズは本当なんだけれども、それがね、まず自分が助かって人が助かっていき、それが世界津々浦々に広がっていくということは、それこそ千里の道もやっぱり一里から一歩からなのです。その一歩のところをね、皆さん、大事にしなさらなきゃならない。合楽にご縁を頂いたひとつの責任のようなものをね、皆さんが感じて下さる信心に育って下さる。もう人のことまでは祈れんもん、自分だけでてやっとかっとというような信心から、ね、言うならば、あー、合楽理念の未来像というのはこれが千年かかるか万年かかるか分かりませんよね。けども千年万年もちよっても、大体言うたらもう遅か、ね。
それこそ、あのう、何とかダムスとかいう預言者があって、今度、第3集というのが出るんだそうですがね、この頃からローマ法王がここ、日本にも見えましたが、ね、そういうようなことでもちゃんと予言の中に入っておった、ね。そして、あのローマ法王が各国を回るようになったら、もう世界がもういよいよ、週末の時期を迎えるといったようなことが予言されておるそうです。
ですから、今のそうした、なら私もこれはもう5、6年も前に頂いておる、今、現在地球には死相が現われておると頂いたんです。もうびっくりするほどの(?)ことでした。その当時でしたね、寒天危地、歓天喜地ということを頂いて、言うならば、今、人間の住む世界というものは寒天危地、もうそれこそ肌に粟粒を感じるようなもうそれこそ寒気を感じるような寒い天、危うい地というふうに寒天危地と。
それをね、けれども、いわゆる和賀心時代を創るということは、ね、真の信心による、言うならば合楽理念に基づく信心の喜びをもって、歓天の歓天と歓びの天、ね。喜地というのも喜びの地と。歓天喜地にするのは、ね、合楽理念をもってする他はない。もちろん、金光大神の信心をもってする他はないということなんですけれども、その金光大神の御教えそのものをです、ならそれほどに大変なものだと、それほど言うならば、もう無類のものだと、ね。
しかも、おー、宗教以前の、過去の宗教が解き得なかった、とい、ね、分からなかった。言うならば宗教はあった、大きな宗教も今日、仏教とキリスト教があるけれども、その宗教に入って助かった者がない、ね。その宗教を本気で努めよう、本気で頂こうとするといよいよもって難しいことになった。因縁である輪廻である罪であり原罪である。
ここにいたる時にです、これはね、それが嘘ということではない、この頃から頂きます御理解に、ちょうど玉ねぎのね、玉ねぎがこう、球根がありましょう。その下にまた、小さい糸のような根がいっぱいあるでしょう。だからそういうことから説くと、言うなら、あー、哲学宗教と言われるその仏教はこういうところもまあ説いておるのかも分かりませんけれども、ここは人間の幸せには関係のないことなんだ、ここはもう切って捨ててよいところなんだと。もうこの球根のところだけしか食べられんのだと、人間はそこでいいのです、ね。
そんなに難しいことを、言うならば勉強して、ね、それこそ頭がどうかなるように、ね、究極、究明してまいりますと、もう自殺行為より他にない、というような難しいものではない。確かに、この玉ねぎがこうあって下の根が沢山あります、糸のようなのがあります、ね。もちろん、ここからこう、言うなら、あの、球根ができておるのですけれども、神様はこういうところまでも分かれ、分からなければ助からんというのではない、ね。
人間が人間らしゅう、生きてと、人間が人間らしゅうそれこそ神恩報謝の心を持って生きていく時に、神様の喜びなんだと、ね。それこそ、手と足と口と心が、ひとつに喜びあえれる時に、ね、それこそ、天と地がひとつになって、鶴亀が舞い遊ぶようなと人間の幸せを、まあ詩って下さってあるのです、ね。
因縁とか輪廻とか罪とか原罪とか、もうそういうことは、なら、あるかもしれんけれども、それこそそこは人間のことであるから、生身をもっておる人間のことであるから、神様は親心をもって、もう本気で素直に「詫びれば許してやりたいのが親心だ」と教えておられる、合楽理念には、ね。
「詫びれば許してやる」というような教えがかつてあっただろうか、ね、そして初めて天地の大恩が分かり、天地のご恩徳を分からしてもろうて、天地のご恩徳の中に生かされる喜びをだんだん大きく広くしてく。信心とは一年一年有難うなっていくことだと。年がとるほど位がつくものだと、ね。信心の、言うなら位を頂く、言うならお徳を頂いていく度に自分の心がいやがうえにも豊かになっていく、有難うなってくる。
しかもその豊かな有難いという心には、豊かな有難い、言うなら人間の幸せの条件が足ろうてくるというのが合楽理念で説く信心なんです、ね。それこそ、おー、自分の心の中にそういう豊かなおかげを頂くことのために、いよいよ、ね、真善美に輝くというふうに申します、ね、赤裸々な嘘のない生活でなからなきゃいけない、ね。
言うならば悪のない善の心が、心にいよいよ育っていかなければならない。いよいよ、ね、見苦しい、ね、汚い、ね、醜い、その反対の美である、美しい。そういう真善美を目指していくということは、だから真善美に輝く世界にまた住むことができるというのです。楽しいです、だから、ね。
人間にはちいとこすぎがなからねばってん、馬鹿を見る。というようなことはないんです、ね。もう限りない、言うならば、あの、真善美の、おー、信心を求めて、真善美に輝かんばかりの世界に住まわせて頂いて、いわゆる貧相病のない世界に住んで、心の中にいやがうえにも有難いというものを頂いて、その有難いという心で、神様の一番のお嘆きであり、または神様の一番のお喜びである難儀な氏子を取り次ぎ助けていく。言うならば合楽示現活動に参画するという精神、ね。
今朝からもいつも聞いて頂きますように、ね、とにかく合楽世界に住むことなんです、私共の理想は。もうあのう、難しいことは、難しいことと言うか、皆さんのお手元に、あー、教会の指針か、というところがございましょう、ね。あれは皆さんももう安心しておって下さい、ね。
もうその通りなのですから、もう一分一厘嘘もかけひきもないのですから、だからあれは教会の指針ではなくて、合楽の信奉者一人一人の指針でなからなきゃならんのです。しかもそういうんなら、難しいことではなくて、もう誰でもがそれに、もう今日、ただ今からでもそれに実験に移っていけれる指針なんです、ね。小さい指針を振り捨てて、そうした神様のお喜び頂けるようなところに焦点をおいて、信心をいよいよ進めていきたいと。
そして、豊かな生活を願わん者はない、ね、ために言うなら、まずは自分の心が豊かにならなければならない、ね。都忘れの、言うならば菊の花の、あの紫の色がいよいよ濃ゆうなっていく、安心の度合いというものがいよいよ本当なものになっていく、いわゆる喜びをいつまでも持ち続けていけれる喜びを、これは育てていくということなんです、ね。その、ならどげん育てたらならいいかというのじゃなくて、もう合楽では朝晩、その、育てていく手立てが説かれておるわけでしょう、ね。
ですから、それを本気でね、実験しなければいけんのです。もう合楽ではね、嘘は言わないです、本当なことを言うんです。ですから、あんまり本当なことだから、それを嘘のように聞こえるような場合があるんです。
2、3日前にテレビを見せて頂いておりましたら、あー、小児科のおじいさんの先生が、その、小児の子供の皮膚病の説明をなさっておられました。はあ、このお医者さんほんなこつよいお医者さんばいと思うて私は聞いておった。皮膚病の薬だけはもう絶対効かん薬から、もう効かん薬を下さいと言うて薬局で買わないかんげなばい(笑)。もう効く薬、もう付けたらすぐ良うなるっちゅうごたるとはいけません。もう今アメリカでそういうのがでけとる。
ところがそれを飲むとね、背が太らんげな。一寸奉仕になってしまう。子供ん時にその薬を皮膚病をね、だからもうできるだけ皮膚病の薬だけは効かん薬をと言うて、買いなさいと言うて、その、お母さんに説明をしておられた。これは小児科の、おー、言うならば、あー、皮膚病だけのことではないです。合楽で合楽理念に申します、言うならば、んー、合楽理念をもっての、まあ健康管理と申しましょうか、ね、これはまず薬は毒だということを知らなきゃいけんです、ね。
だから、もし、今も(テープ切れ)
第一、薬で良くなろうと思う心が間違っておる。私は、もうお参り、昼下がり、昼、お広前に出ると、炊事場の方へ行くと、「親先生へ、どうぞこのお薬をお飲み下さい」っち、看板がかかっとるもん。そして、ここにコップに入れてある。細かいの、何の薬か知らんのに毎日飲みよる。それこそ、(笑)毒薬が薬になりますようとも言いません、思いもせんし、ならこれでよくなろうとも思わない、ね。毒薬転じて薬になりますようにという願いも持たん。
それを飲んで、右左のことは神様に任せてあって、ただ「親先生飲んで下さい」と書いてあるから飲むだけのこと。(笑)、それでよくなろうなんてとても夢にも思わない、ね。けど、皆さんの場合はそんなわけにはいかん、早くよくなるごたる。だから、言うならば毒薬が変じて薬になりますように、これはその、薬一つの飲み方でも合楽理念をマスターせんとね、やっぱりあの薬、この頃からある人が参って来た。あんまり薬を飲みすぎてからですね、薬害で、だからその、それを治す薬はなかじゃろうかと言うて(笑)、ある人が頼まれたと言うんですよ。もうあなた、長年信心しよんなさってから、どうして合楽でおかげ頂きなさらんですかちゅって言ったら、いいや、御神酒さんをつけたばってん、痒くて痛かったっち。そらちいとはしみるくさ、アルコールもんじゃけんな。
けどもそこを有難いと頂く心がなからなければ駄目です。これはこのお米がごたっとば食べてから、そのよくなるはずはないですよちゅって理屈言うたらその通りなんだ。けども御神米、金光様の祈り、親先生の祈りがこの中に込められておるんだとして、頂くから、言うならば助からんはずの病人が合楽の御神米、御神酒さんで助かっておるじゃないかと、ね。そういう助かりを頂くと同時に、今、申しますように、皆さんのその手元に配られておる、もう一遍も二遍もひとつ、よく、あのう玩味しながらお読みください。
そして、その、合楽教、教会の指針というのを私の指針として信心をいよいよ進めていって、合楽理念の、もういよいよ限りない、研究とまた実験と、そしてその実証を頂かせて頂きながら、先程の、おー、子供さんの、が、まあ家出っちゅうと何じゃけん、外出者とたいね(笑)。家出っちゅうと何か深刻ですからね、うん、ちょっと外出しとんなさる。いや、本当、そげなふうに(笑)、思えれるようになるです、信心何年頂きよんなると、今言うようにね。神様がそこに物言うて下さるよう自分の心に触れる、そこに感じる、ね、ヒーリングです。神様との間に、そういうものが交流するとです、ね。
カツ丼を頼んだら、間違えてではあろうけれども親子丼を運んで、もう神様が間違わせて、そこにひとつの悟りを下さろうとしておる。初めて、それこそ、おー、日頃、御理解を頂く人じゃないけれども、それを感じるわけです。これは親子の者が共々、ままになるおかげだと帰って家内に話した。本当にそうですね、と言うて、また、わざわざ昨日山口まで行って会いもできなかったけれども、ね、もうそれこそ昨日と今日というのはもう、顔、面持ちが変わっておる、態度が違う。
親先生、この息子を、の今度の事件を通してです、ね、本気で本当の信心を頂きたいと思いますと、本当にもう、○○さん、有難うちゅうて帰って来たなら、本当に手をついてお礼ば言わんならんごたるのちゅって今朝から喜びあったことでした、ね。そういう心が開けてくるのが信心です。それをね、合楽の場合は、神様が一緒に、言うなら合楽理念、んー、合楽示現活動に参画するということ、ね。
それは、どうぞ、ただ、参加させてもらおうと言うのじゃなくて、合楽の信者にかけてもらおうじゃなくてです、どうぞ信者にならせて下さい、合楽示現活動の運動に私も、ね、どうぞ参加させて下さいということが、参画という意味だそうです、ね。
だから、そういう気になって、いよいよ信心を、おー、頂いてまいりたい、ね、もう合楽に御神縁を頂いたもう一人一人がですね、そのところの心が、あー、一心発起できた時にです、ね、初めて神様が、ね、不信心者ほど神はかわいいと、ね、その、神様の悲しい、言うならば神様の、おー、お嘆きのお言葉ですから、ね、合楽に御神縁を頂いておる一人一人がです、ね、この地方にはお前がおってくれるから、そうですよ、ね。家の中に一人信心すりゃ家が助かる。一部落に一軒の家族の者が信心すりゃあその部落が助かると言われるのですから、カバーして下さるっちゅう。
★この頃一週間ばっかりお参り、世界、いー、の、おー、「ナンバーワン」というお言葉を頂いて目が覚めたんです。ね。だから世界中、津々浦々というにです、ね、例えば1人でも2人でも言うならそこに信心の種を蒔かせて頂くということ、他のところはいっぱいできとらんだろうけれども、神様はその次に、あのう、世界をカバーすると仰った。そのカバーができるのは合楽理念をもってする他ないと仰っとる。現代の宗教では、他の宗教では絶対駄目です、ね。
カバーして下さるということは、できんのがおってもやっぱここ、ね、家の中で一人の信心をすりゃあ、家の中の信心のない者までカバーして下さるという意味なんです、ね。ノストラダムスという人が予言をして、今度の、おー、またその、ご本が出たそうですが、それがいよいよ、もう深刻な、あー、ことが予言されておることだろうと思います、ね。言うならば、あー、ローマ法王が全国あっちこっち回るようになったのがもう世も末だと。そうじゃろうと思いますね、見えとる間には雨が降ったり雨があったり嵐があったり。しかも、雪があって600人という人が倒れた。
もうそれこそ、不幸をもたらしに来たというふうに私はまあ、ひにくって言うんですけどもね、これはね、えー、何かそこに感じなければいけない。それこそ、無限のようにそれが、ね、地球上の上に現われていきよる姿かも分かりません。けれども、それを救えるのは合楽理念、ね。合楽理念をもって、そらそうです、人間のない、もうおしまいという寿命さえが、ね、死相が現われておるような病人がよみがえっておるという事実があるのですから、これをもっともっと大きくしていったら、ね、地球に死期は、地球に死相が現われておるほどしの地球に、また地球をよみがえらせれる力もある、それが金光教の信心だと、ね。
その信心を合楽理念にまとめさして頂くと、誰しもがそういう運動に参画さしてもらわずにはおれないような心が生まれてくる、ね。そこんところに私共が生きがいが感じられるような信心をいよいよ頂きたいですね。どうぞ。
明渡真